綴織に魅了された織人


綴織職人 平野喜久夫

201608_hirano

仕事をしながら高校に通っていた

―よろしくお願いします。まず、綴織(つづれおり)を始めるようになった経緯を教えて下さい。

よろしくお願いします。元々、父が織屋をやっていました。その後を継いだという事になります。ですので、手伝いをさせられることも多かったです。実際に仕事を始めたのは15歳からで、初めの4年間は織り方を父から教わっていました。

その後、物の考え方も勉強したいなと思って、定時制の高校に行っていたこともあります。今があるのはその定時制の4年間のおかげと思うほど、僕の中で重要だったと思っています。

現在ここで織っているのは、爪掻本綴織(つめがきほんつづれおり)と呼ばれるものです。機械は使わず人の手足のみで操作する「綴機(つづればた)」で「爪掻(つめがき)」と呼ばれる技法で織っていきます。

必要な部分の経糸(縦糸)を杼(ひ)ですくい、ノコギリ状に研いだ爪先で経糸(横糸)を掻きよせ、強度が平均になるように「筋立て」という櫛(くし)で織り込んでいく技法です。

現在ここで織っているのは、爪掻綴織(つめがきつづれおり)と呼ばれるものです。機械は使わず人の手足のみで操作する「綴機(つづればた)」で「爪掻(つめがき)」と呼ばれる技法で織っていきます。必要な部分の経糸(緯糸)を杼ですくい、ノコギリ状に研いだ爪先で経糸(緯糸)を掻きよせ、強度が平均になるように「筋立て」という櫛(くし)で織り込んでいく技法です。

―なるほど。仕事をしながら定時制高校に行き、どのように経験を積まれたのですか。

家では着物の帯を織る仕事をしながら定時制の高校に通い、最終的にはその高校を卒業しました。仕事で織っていた帯は、織る内容が決まっていました。帯を織る場合、図案が来てこの部分はこの色という配色糸が決まっています。その配色通りに織り、いくらか工賃がもらえます。

でもすでに配色が決まっているので、同じ事の繰り返しになってしまい、面白くなかったんです。自分の想いをだすこともできないし、発展もしないなと思いました。

京都には「川島織物」という織物屋がありますが、そこでは帯だけではなく、壁張りや劇場の緞帳なども織っていたんです。たまたまその川島織物が緞帳などを織る人を探していて。僕に声がかかったので行ってみようと思い、川島織物で働くようになりました。川島織物では、40年ほど働いていましたね。その中で、たくさんの綴織の表現を学びました。自分で生み出した織り方もあります。

綴織でもっと冒険したい

―表現したかったということですね。

京都には「川島織物」という織物屋がありますが、そこでは帯だけではなく、壁張りや劇場の緞帳なども織っていたんです。たまたまその川島織物が緞帳などを織る人を探していて。

僕に声がかかったので行ってみようと思い、川島織物で働くようになりました。川島織物では、40年ほど働いていましたね。その中で、たくさんの綴織の表現を学びました。自分で生み出した織り方もあります。

綴織は織る大きさに原画を拡大し、それを経糸の下に敷いて織っていきますが、川島織物でも原画の色に当てはめて織っていくことが主な仕事でした。

そうすると、いかに簡単によく見せるかということを重要視します。会社の上司からすると、「効率の良い、エコなことをしろ」と。

原価と納期を重視したものになり、期間のなかで良い物を作ることをとても考え、「どういう扱いをしたらいいのか」という事を工夫していた訳です。

そんな事をやっているうちに定年になり、結局は67歳になった時に辞めました。でも、川島織物で仕事をしている時から新しいことを沢山やってきましたけれども、「もっと冒険したい」「もっと試したい」ということをずっと思っていました。

―川島織物を辞めた後は、どうしたのですか。

それで川島織物を退職した後、西陣織会館から「来てくれないか」と呼ばれたんです。それで、やり始めてみるとなかなか良い上司で。

「色んなものを織ってくれていい」「原料も君の好きなようにしたらいい」」と言ってくれたので、様々な物を織りました。それも良い評価を頂きました。川島織物で培った技術は、やっぱりそれだけのものになるのだと実感できましたし、面白かったです。

そんなことをしていると、今度は後継者を育成しないかとなりました。そこから、後継者育成に関わり始めました。やり始めて3年ほどたった時に、東北の地震が起こり景気も悪くなったので、一度西陣織会館を辞めたんです。

そしたら、教えていた子に「辞めて欲しくない」と言われてしまい、6畳2間の工房に移って3年ほど教えていました。そこが手狭になってきたので、今の所に移ってきたということになります。

京都にはたくさんの織屋さんがありますが、国や府などからの注文は、大きな織屋さんにしか来ないというのが現状です。お祭りの幕など、数が多いものなどは特にそうです。なぜそうなるかと言うと、それが一番簡単で安心だと思われているからでしょう。しかし、規模は小さくとも高い技術を持った工房はたくさんありますので、そういった所にも目を向けて欲しいと思います。

もっと職人を大事にしてほしい

―長年織物という分野に関わり、産業としての問題点などはどこだと思いますか。

京都にはたくさんの織屋さんがありますが、国や府などからの注文は、大きな織屋さんにしか来ないというのが現状です。お祭りの幕など、数が多いものなどは特にそうです。なぜそうなるかと言うと、それが一番簡単で安心だと思われているからでしょう。

しかし、規模は小さくとも高い技術を持った工房はたくさんありますので、そういった所にも目を向けて欲しいと思います。

―それは、行政も関わってくる事ですね

もう一つは、職人の立場と収入の問題です。大きい織物屋さんも、職人を自社で抱えているということはあまりなく、複数の工房から職人を集めています。

そうすると、職人にとって安定した仕事を得ることはなかなか難しい部分があります。また、職人を新しく育てることもあまりされていません。

多くの織物屋さんは、課せられた売り上げや、生産量を限られた人手で得ようとします。なので、職人の給与は低くて立場も弱く、雇用が安定しないのです。職人がもっと仕事の質に見合った収入が得られるようにしていきたいと考えています。

京都にはたくさんの織屋さんがありますが、国や府などからの注文は、大きな織屋さんにしか来ないというのが現状です。

綴織を見た人の驚きを見たい

―平野さんの原動力は、どこからくるのでしょうか。

やはり、綴織を見た人の反応を見たいからです。「えっ、なんなん」「なんでこんなんできるん」そういった、驚きを見たいです。特にある程度知識のある人や目の肥えた人に驚いてもらいたいんです。

いろんな表現方法を作りだし、それを見て喜んでくれる。また、それを見て習いたいと思ってくれる人がいる事が、自分を突き動かすところかなと思います。

やはり綴織は特に感性で作るものなので、心豊かでないと良いものができません。織手の感性が見る人の感性を揺さぶり、「欲しいな」と思ってもらわないといけないと考えています。なので、やっぱり中身のあるものを作らないといけないですね。

―なるほど。では、今後行いたい事を教えて下さい。

職人は特に仕事がよく出来ないといけない、ということばかりに集中してきました。言われた物を早く出来るのが職人です。でも今の世の中、職人が物を作るだけでいい訳では無くなってきました。

売ることも、新しいものを考えることもしないといけない。トータルに何でもできる人を作らないといけないからしんどい訳ですね。

そこで、僕が考えているのは語学が出来る、パソコンが使える、お客さん扱いも上手い、そういう人に教えればいいと思うんです。そうすれば、オールマイティな人ができる。そういった人材を育てることで、全体にもう少し力がつくのではないかと考えています。

実は、今少し動きかけています。それが実際にうまくいくかどうかは、数年見てみないと分かりません。でも、実現すれば若い人が一人前になるまで10年かかるものを、3年経験したら良い物ができるようになると思います。

そして職人になろうと思い、うちの工房に来た人が食べていけるようにしないといけません。そうでないと続きませんし、趣味で終わってしまいます。だから帯を織るだけではなく、工房見学や体験を打ち出すことで、綴織を知って頂きたいです。

なので、国内だけではなく海外にも目を向けていかないといけません。英語版のパンフレットや、英文のビデオも作ったりしています。

綴織にお世話になり、人生全うに近い所まできています。綴織以外のことはもう何も心配なく、綴織だけに打ち込んでいればいいという状況です。

でも、自分が泣くような想いをして一生懸命やってきた事を人に教えなければ、綴織が無くなってしまいます。だから、綴織をいろんな人に教えていきたいと思っています。

そして職人になろうと思い、うちの工房に来た人が食べていけるようにしないといけません。そうでないと続きませんし、趣味で終わってしまう。だから帯を織るだけではなく、工房見学や体験を打ち出すことで、綴織を知って頂きたいです。なので、国内だけではなく海外にも目を向けていかないといけません。英語版のパンフレットや、英文のビデオも作ったりしています。 綴織にお世話になり、人生全うに近い所まできています。綴織以外のことはもう何も心配なく、だけに打ち込んでいればいいという状況です。でも、自分が泣くような想いをして一生懸命やってきた事を人に教えなければ、綴織が無くなってしまいます。だから、綴織をいろんな人に教えていきたいと思っています。

織人紹介

平野喜久夫

1939年、京都・西陣に生まれる。伝統工芸士。綴織の機屋の父に師事し、3代目を継ぐ。川島織物セルコンに入社後、40年あまり技術を磨く。その後西陣織会館にて後継者育成などに携わったのち、2011年に綴織技術保存会「奏絲綴苑」を設立。綴織の魅力を伝えるべく、工房を公開し、見学や体験教室などを行っている。瑞宝単光章叙勲。

工房説明

奏絲綴苑(そうしつづれえん)

一度に4~8名が織ることができる大きな織機を含め、約16台の織機を完備。初めての方でも気軽に綴織の作品を織って頂けます。伝統工芸士をはじめ、工房の職人が心を込めてサポートしますのでご安心を。北野天満宮や花街・上七軒の近くで、観光にも便利。

工房情報

奏絲綴苑(そうしつづれえん)

〒602-8394 京都市上京区西柳町590-8
TEL:090-8232-5228(代表:平野喜久夫)

奏絲綴苑webサイト

取材後記

今回は、綴織の職人さんの元にお話を伺ってきました。綴織という織の魅力を心から感じ、今も尚新しいことに挑戦されています。その姿がとても魅力的でした。綴織を趣味としてではなく、仕事として残していくにはどうすれば良いのか。このことは、大変難しいことだと思います。ですが、そこに少しずつ種をまき残るように行動に起こされていました。それは、やはり綴織が好きだから。綴織の魅力を語っておられた時の生き生きとした表情がとても印象的で忘れられません。まさに「織人」でした。平野さん、今回のインタビューを受けて頂きありがとうございました。

作者情報

編集:西野愛菜
撮影:田安仁
構成:倪

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