京竹細工職人 石田正一
2代目を継ぐのは宿命だった
―よろしくお願いします。まず、なぜこの仕事に入られたのかを教えて下さい。
よろしくお願いします。実は私で2代目になります。若い時はあまりやりたくなかったです。でも、親父の体が弱かったので、やらざるを得ない状態でした。
僕らの時代は、今みたいに自分の好きな事が出来る時代と違いましたから、親からも周りからも「2代目継げ」とうるさく言われたものです。
なので、これはもう宿命だと思ってあきらめました。18歳から本格的にやりだして今で62年目になります。
―じゃぁ、最初の頃は修行という形でやっておられたのですか。
そうですね。ここで親父と一緒にやっていました。修行中はあまり苦しく感じることはなかったです。他の弟子と一緒にやっていたので、楽しくやっていました。
そして、「竹美斎」という名を、昭和39年の35歳のときに襲名したんです。その後、僕の弟子を4人育てて、学校で教えるようになりました。
―京都伝統工芸大学校(以下TASK)ですね。京都精華大学にも行かれていたと聞きました。
精華大学にはちょうど、73歳まで行っていたと思います。TASKは、プロを養成するような学校ですからね。創立当初から教えに行っているので、もう22年になります。週に2回教えています。
その他の日は、ここで仕事をしています。基本的には注文の商品ばかりで、お茶道具屋さんや小売屋さん、問屋さんが多いのでそこから注文が来て作っています。たまに、一般の方も買いに来られることもありますよ。最近は、照明器具やバック系統の注文が多いですね。
―なるほど。大学の方でも教えておられるということで、職人になりたいという学生などはいるのでしょうか。
もう、この仕事を継ぐ人はあまりいません。やはり、辞める人が多いです。僕の息子も、儲からないので後を継ぎません。なので、2代目で終わりです。
でもなんとか技術を残したいと思い、一生懸命やりたいという子に教えています。やりたい子には伝えていった方がいいと思いますから。でも学生でやりたい子は多いですが、なかなか生業に出来ないことが難しい所です。
バリエーションが豊富な編み方
―竹にはどの様な種類があるのですか。
竹の種類は日本だけではなく、東南アジアなども含めると約1800種類あります。
日本の竹は、土の中に「地下茎根」という根っこが走っていて、節から一本ずつ生えてきます。でも、東南アジアに行くと根っこではなく「株」なんです。
ウチで使う竹は「真竹」という竹が一番多いです。真竹は、竹の繊維が細かく詰まっているので弾力があるんですね。曲げても丈夫なのでよく使用します。
―なるほど。見ていると様々な編み方がありますね。
竹の編み方は100以上あると思います。もちろん、全部の編み方を覚えるのは大変です。
「網代編み(あじろあみ)」「六ツ目編み(むつめあみ)」など基本の編み方があって、その編み方を発展させることで、様々な編み方が出来ます。なので、基本はみんな一緒なんです。
1つの編み方から20通り以上の編み方が出来ます。それだけ、バリエーションが豊富ということです。なので、全体で言うと100以上の編み方は確実にあると思います。もっといろんなバリエーションを考える事も出来ますよ。
―これだけ編み方があれば色んな物を作れそうですね。様々な編み方のバリエーションがあることに驚きます。
初めて見る人は、そう思うかもしれませんね。ザルみたいな物ばかりと思っている人も多いかもしれません。でも、同じような編み方に見える物でも、よく見れば違う編み方なんです。
よく見ると、真ん中の部分だけ編み方が変わっていて、切り替えをしている部分もあったりします。切り替えは、ちゃんと法則があって「5飛ばして1拾ってまた3」という風に、組み替えていくんです。そういった工夫もしないといけないんですね。
竹の仕事が趣味
―18歳から本格的に竹職人として仕事をされておられますが、石田さんにとっての竹工芸の魅力はとはなんでしょうか。
まず、形の無い所から物を作っていく所が楽しいです。1本の竹から、物が仕上がっていくということ自体が僕にとって楽しいことなんですね。
だから、魅力があるというより、やり出すと面白い。僕も最初は嫌だったのですけれども、その内だんだんハマってしまいました。もう好きです。今はもう、趣味と仕事を兼ねてもう竹の仕事が趣味でもあります。
―仕事兼趣味というのは、素晴らしいですね。でも、初めはそうではなかったのですか。
地味な仕事なのではっきり言えば、もっと変わった仕事に憧れていました。若い頃はやりたい事があったんです。
でも、結局家族の生活の為に竹職人として仕事をやっていかないといけない状況になってしまいました。生きていく為というか、生活していく為にということです。食べるのに一生懸命だったので、稼がないといけないというのが本音でした。
だから、面白くなってきたのは半ばぐらいからです。40歳ぐらいからこの仕事をするのが面白くなってきました。
―40歳ぐらいの時から面白くなったきっかけは、なんだったのでしょうか。
僕が22歳の時に結婚したので、奥さんと子供を養っていくことになりました。それこそ、幼稚園から高校、大学まで卒業させて来たものですので、やはり、そういう面でゆとりが出来たのが40歳ぐらいだったからだと思います。気持ちにも余裕が出来たのです。
そこで初めて、自分の仕事の面白みが分かって来ました。それまでは、とにかく家族を支えることに精一杯だったんです。
―なるほど。以前に竹で洋服を作るなど、新しい取り組みを行っていると聞きました。そういった、新しい取り組みをする中で得た気づきや発見などはありますか。
やはり、「竹」というのは自然の植物なので曲げたりする時に限界があります。薄く削ろうと思えば、いくらでも薄くできますが耐久力がありません。植物なので、炭化するのが早いんです。
また長持ちさせようと思うと、あまり無理な使い方はしたくありません。その辺りの兼ね合いが難しいですね。やはり、ある程度は竹の言う事も聞きながら作っていかないといけないと思います。
物を作るとなると、自分の言う事を聞かせたくなります。でも、無茶苦茶に竹をいじめてみた所で竹はやっぱり、最後まで言うことを聞きません。曲げても必ず元に戻ろうとします。
自然素材を使って物を作るのは、素材と相談しながら作っていかないといけません。もうそこまで考えるのは、悟りの境地だと思いますね。
竹のお茶室を作りたい
―では、最後に今後何か取り組んでみたい事はありますか。
若い頃はいろんな事を思いましたけど、もう歳も歳なので、体力的にもキツイ所があります。
ただ、編んだ物でお茶室みたいな物を作ってみたいなと思っています。なぜ、そんな事を思ったのかって?カツオの一本釣りってありますよね。一本釣りでは、海の中に生きたイワシをエサとして入れるんです。そのイワシを入れておく器が、竹で編んである物を以前見たことがあります。
それに驚きました。こんな物が出来るのであればお茶室ぐらい出来るな、と思って作ってみたいなと思いました。そのお茶室は本当に一度作ってみたいですね。
織人紹介
石田正一
18歳の時から先代竹美斎の指導を受け、編組についてすべてを習得する。先代亡き後2代目を昭和39年に襲名する。以後独自に研にはげみ。唐物写・時代籠なども古い時代の籠編みも習得し、なお制作竹芸も研究し制作する。
平成21年度京都府伝統産業優秀技術者(京の名工)に認定される。
工房情報
竹美斎(ちくびさい)
〒605-0813 京都市東山区松原通大和大路東入二丁目 轆轤町101
取材後記
今回は、東山区の竹職人さんの元に行って来ました。入ってみるとすぐに工房があり、目の前で仕事をされている姿を見ることができました。
目の前で竹が編まれていき、少しずつ形が出来て来るのが見ていて面白かったです。また、「竹の仕事が趣味でもある」という言葉には、これまでの経験が積み重なった言葉だと感じました。
今回、取材を受けて下さった石田さん、ありがとうございました。
作者情報
編集:西野愛菜
撮影:田安仁
構成:倪